「道」と「残心」
ある日、
宙奏って、剣道、柔道、華道、茶道、書道のように「道(どう)」だよなぁって思った私
そこで、なにがどう「道」なのか? 調べてみました。
「道」ってそもそも何なんだろうか?
「道」という漢字は「首(人)」が「しんにょう(往来)」を行くという意味だそうで、
そこから発展して、人が何度も同じことを反復して得た最高の善を「道(どう)」と表現したそうです。
そこには単に技術を磨くだけでなく、人としての成長をめざすことが大きく目標として組み込まれています。
それが「道(どう)」という一文字に表現されているのだと言われているそうです。
宙奏はまさしく、「片道」ではなく「反復」の作業、
しかも深く自分に潜っていくような時間と
さぁどうする?という挑戦。
乗り越えたところにある平安を味わい成長していきます。
そこには
宇宙の感覚に任せるという「余地」を必要とし、
自分の力ではなく自然の力に身を任せ、描かせてもらっているという謙虚さが必要です。
なので作品には名前を入れません。
そのせいか、
私たちはいつしか自然と大きな作品を描くことを「旅」と呼ぶようになりました。
同時に、「道(どう)」を考えるときに外せないのが「残心」という心構えや所作です。
剣道では「残心」として、勝ったとしても相手を思い、気を抜かない礼儀を大切にすること、
茶道では「余情残心」としてお客様が帰った後もその方を思い、謙虚さを尊ぶことが礼法だそうです。
相撲は「道」ではなかったですが、「勝鬨(かちどき)」を上げるような外国人力士のしぐさを嫌いましたね。
残心のない姿は、はしたないものだと思われていたのでしょう。
残心とは同時に相手に対する「リスペクト」も意味します
私はよくその作品が出来上がったのかまだなのか?をじっと考えます。
何かのサインがやってくるのではないか?そんな風に思うこともあります。
ただ、静かに額に納まり永遠の流れに入っていくその曼荼羅に施せたなにかがあるのだとすれば。
この「残心」ではないか?そう思うのです。